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フィリピンの古都であり開発が進むイロイロ市

Hey, guys! 海外侍の義貞です。

ボホール島の友人と話した時に、彼女は旦那(ニュージーランド人)と一緒にイロイロ市に移る予定でいると聞きました。イロイロ市の情報を送ってくれたので調べていく、なかなか面白い場所であることがわかりました。

まず、名前からして変わってますよね。イロイロという。

ビサヤ諸島のパナイ島南岸に位置するイロイロ市。フィリピンで最も住みやすい街と言われ、コロニアルな建築様式が残り、世界遺産の教会もあります。イロイロ空港はマニラから約1時間15分、セブからは約50分で到着できる上、香港とシンガポールから国際線も出ているようです。

フィリピンの古都としてその趣を残す一方で、近年は新開発地区として発展しているようです。SMやロビンソンズなどの大手不動産開発会社が開発を主導しています。

フィリピンには地の利があります。また、人々を惹きつけるビーチなどの観光地も多くあります。

特に発展しているシンガポール、香港や台湾から人が来ますし、中華圏の人々にとってはお手軽かつ気楽に行ける場所に位置しています。フィリピンは人々はオープンですが、政府が今までは保護的でした。フィリピン人は世界に出て活躍できるにも関わらず、国内の産業の育成がうまくいかなかったわけです。

しかし、今や400万人のフィリピン系アメリカ人が米国に暮らしており、中華系アメリカ人に次いでアジア系では最大規模です。中国の人口はフィリピンの約13倍ですから、それと比較すればいかに多くのフィリピン系アメリカ人が米国にいるか分かります。

なので、フィリピンにとってはフィリピン系アメリカ人との関係が重要であり、多くのフィリピン系アメリカ人を国に成長に繋げたいと思うはずです。そのためにフィリピン自体がより発展していかないといけません。

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フィリピン経済ーremittance(送金), BPO, Essential work

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Photo by Pixabay on Pexels.com

Hey, guys! 義貞です。

久しぶりに、ポッドキャストを録りました。今回はフィリピン経済について。

1950年代までフィリピンはアジアの中でも最も豊かな国の部類に入る国だったのが、1980年代には「アジアの病人」とまで呼ばれるほど政治、経済的に低迷しました。

しかし、フィリピンは昔よりは進化して、BPOビジネスを中心にサービス産業や海外送金によって成り立つようになりました。人口も増えており、若年層が多く活気もあります。

日本で見るフィリピン関連のニュースは、犯罪関連のネガティブなものか、ビーチリゾートなど観光面に傾斜していて実際のフィリピンの実像というのはなかなか捉えることができません。フィリピン関連の日本人のユーチューブなどでは、お金と女性の話をするオジさんとフィリピンをおかしく取り上げる若者のそれぞれに分かれていて、やはりどこか現実的ではありません。

そういう面では、欧米人たちの方がより普通な、リアルなフィリピンを伝えている感じはあります。フィリピンの料理やビーチ、海や自然、人々の素朴さなどを伝えています。

個人的にはそこに加えて、フィリピンの人物たちなども紹介していきたいと思っています。ジョリビーを起業したトニー・タンとか、アヤラコーポレーションのソベルデ・アヤラとか。歴史的にはエミリオ・アギナルドとか。興味深い人物たちが多くいます。

今回はフィリピンの経済その1です。

セブの開発1 セブサムライ

セブで進行する新しい開発について+日本のことin English
  1. セブの開発1
  2. フィリピン経済その2
  3. フィリピン系アメリカ人について
  4. フィリピンとメキシコ
  5. フィリピン経済その1
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シリーズ③カトリックの源流-フィリピンとキリスト教

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どうも、海外侍の義貞です。

フィリピンの文化は、統治者であったスペインの宗教、食文化、建築様式を取り入れて発展してきました。現在のスペイン人は、フィリピンに対してほとんど何の関心もないですが、その文化・様式は東方にある群島国家の中で根付いています。

スペインをはじめとする大航海時代の冒険家たちが、自国離れた遠い島国の形を変えてしまったという点で衝撃的です。その島にキリスト教を普及させたという点も興味深いです。

以前からブログで取り上げていますが、安土桃山から戦国にかけては南蛮貿易が行われ、多くの南蛮人たちが長崎港に寄港して日本で交易を行うとともに、日本全土で布教を行いました。

昨年はコロナもあり、行きたかった長崎に行けなかったのですが、可能なら今年は長崎に行って港や教会を見て回りたいです。サン・ファン・バウティスタ号と支倉常長が船出した仙台も見て回りたいですね。

カトリックとは、普遍を意味します。多くの哲学は神学から敷衍して出てきていることもあり、キリスト教に興味を持っています。

10代後半から20代前半の若かった頃、自分の人生の意味や価値、あらゆるものの存在の意義に対してよく分からなく混乱して、自分を見失っていました。人ごみの流れの中で、自分が孤独で不安な存在なんだと感じていましたが、そういう時でも教会というのは誰に対しても扉を開いていてくれます。

ロンドンの凍りつくような寒さの中で、教会に入った時に暖かく安らいで、可愛いらしいおばあさんがお花を供えながら、こちらを向いてHelloと言ってくれました。それだけでイギリスを好きになったものです。

このシリーズでは、なぜフィリピンでキリスト教が普及したのかを考えていきます。そもそもフィリピン人はマレー系で、マゼラン来航以前はアラブの商人の活躍などから、このリージョン(地域)ではイスラム教が主流でした。ながらくスペインに統治されて、アイデンティティまで変えられたのは、キリスト教の普及も関係していると思います。

そのようなコロニアル(植民地的)な関係とフィリピンでのキリスト教についてアップデートしていきます。

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セブ観光地⑥タオイスト・テンプル

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how’s it going, guys! 海外侍の義貞です。

今日は久しぶりにセブの観光地を取り上げたいと思います。

フィリピンには中華系フィリピン人が多くいます。彼の中には成功者が多く、有名どころではフィリピン航空を傘下に収めるルシオ・タンですが、彼は福建省のアモイから移民してきた中華系で、彼の両親は最初セブに移民してきたようです。

セブの高級住宅街に入っていくと、タオイスト・テンプル(道教寺院)があります。前回、ご紹介したように中国の三大宗教は仏教、儒教、そして道教です。東南アジアには道教寺院が多いのですが、フィリピン・セブも例外ではありません。

フィリピンに移民した中華系たちは成功し、ルシオ・タンのようなスーパーリッチのみならず、小金持ちも多いのですが、セブ市のラホグと呼ばれる地区にはそのような中華系が住んでいます。

セブの道教寺院はその地区の高台にあり、天気の良いセブではとても見晴らしが良く、気持ちがよい景色です。隣のマクタン島や海を見晴らすことができるので、おススメの観光スポットです。

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フィリピン歴史⑤アメリカによる植民地化

Photo by Tim Mossholder on Pexels.com

どうも、義貞です。

今日は、アメリカによる植民地化という点からフィリピンの歴史を見ていきたいと思います。前にブログで少し書きました。⇒『フィリピン、グアム、ハワイとアメリカ』https://bit.ly/30ALQwd

アメリカという国は、誕生してからまだ200年ちょっとの歴史しかありません。英国国教会に反発した清教徒(ピューリタン)であるピリグリム・ファーザーズたちが、メイフラワー号に乗り”約束の地”である新大陸に入植して最初に13州の領土を築きます。

その後、マニフェストデスティニー(明白な天命)を掲げ、13州からより西部へと開拓を進めていくのです。イギリスからやって来たアングロサクソンたちが、元来からそこに住んでいた先住民であるインディアンたちを次々と殺害し、自分たちの領土を拡大させていきました。

レヴェナント』というレオナルド・ディカプリオ主演の映画があり、開拓当時をモチーフとして描かれているのでなかなか面白いです。

西部を開拓していきアメリカ領土は拡大していきますが、当時西側のカリフォルニアなどはメキシコ領でした。ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)から独立したメキシコが西側のカリフォルニア州から南部テキサス州までを領土としていましたが、その後テキサスが独立します。そして、西部目指してExpand(拡大)してきたアメリカとの間でテキサスの所属を巡りメキシコと戦争が起きるのです。それが、「米墨戦争」です。

この戦争にアメリカが勝利し、カリフォルニアを獲得します。もともとメキシコ領だったこともあり、カリフォルニアの都市はサンフランシスコサンノゼなどスペイン語の響きが残っています。


アメリカの植民地主義

北米大陸を手中に収めたアメリカは、19世紀にヨーロッパで世界大戦が勃発すると、旧大陸とは距離を置きはじめます。モンロー主義(孤立主義)によって、ヨーロッパの植民地拡大には関わらないという立場をとっていました。

しかし、イギリスとフランスが植民地戦線を拡大させるなかで、太平洋のハワイにまで領土の狙いを定めていました。ハワイは太平洋上でアジアへも開かれており、アジアへ歩を進める補給地として妥当な場所でした。その時にスペイン領であるキューバを巡り、アメリカとスペインで戦争が起こります。それが「米西戦争」です。

米西戦争に勝利したアメリカは、スペイン領であったプエルトリコ、グアム、フィリピンを獲得します。1800年代の終わり頃ですが、フィリピンは独立のためにアメリカと一緒にスペインと戦いました。スペインを倒したフィリピンは200年におよぶ植民地化が終わるかと思いきや、今度はアメリカによって植民地化されます。米西戦争に次いで「米比戦争」が起こりますが、スペインに勝利したアメリカに勝てるはずもなく。

歴史を追っていくと、アメリカはメキシコ、スペイン、フィリピン全てに勝利していますね。歴史的に戦争で負けたことがない(ベトナム戦争は部分敗北)のがアメリカです。だからこそ、「負け」を想像できないし、それは許されないのがアメリカと言っていいでしょう。

アメリカの植民地であるがゆえ、フィリピンは英語圏になってしまったのですねー。

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フィリピン歴史④レイテ島とマッカーサー

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どうも、義貞です。

自分は歴史が好きなので、今回は近現代の歴史に絡めた話にしたいと思います。

誰もが知っているように、日本とアメリカは太平洋戦争で戦っていました。

不幸にもフィリピンは、そんな日本とアメリカの戦況拡大の犠牲になった場所でもあります。戦時中に多くの被害を被ったフィリピンでは、かつて戦地となった場所を訪れると戦闘の説明などが書いてある跡地があります。

レイテ島の後に、北部ルソン島の戦いがありますが、パンガシナン州のリンガエン湾を訪れた時は、そこが戦地であったことさえ知りませんでした。リンガエン湾は幅が広く戦艦で上陸するには降りやすい場所ということもあり、日米両方が上陸しました。

戦いに参加していたのは、日米だけでなく、フィリピン勢とオーストラリア勢も加わっていました。やはり、太平洋に面していると主に米国やオーストラリアが相手となります。

ちなみに、タイではミャンマーとの国境付近にあるカンチャナブリー県で日本軍が英国やオーストラリア軍の捕虜を使ってクウェー川に橋をつくらせ、タイとミャンマーを繋ぐ鉄道の建設を行っていました。(映画『戦場にかける橋』参照)

さて、当時、大本営は戦況は優位にあると考えていました。それは台湾沖の空戦で日本がアメリカ軍に多くの損害を与えたと戦況を判断したことに始まります。本来的にはルソン島(リンガエン湾)に配備するはずであった陸軍を、レイテ島の防衛にまわし、作戦を急きょ変更します。

しかし、この作戦変更は大失敗に終わります。そもそもマニラからレイテ島までの距離は東京から岡山くらい離れており、制空権はアメリカ軍が握っている中で、レイテ島まで兵隊を移動させながら、物資などを補給させることが困難であったからです。

Logisticsは兵站という意味ですが、もともとは軍事用語です。戦術や戦略にならんで、兵站をタイムリーに確保することは、戦闘において非常に重要になります。この補給の見通しが甘かったゆえに、日本軍は多くの餓死者を出すことになりました。

そして、そこで登場するのがダグラス・マッカーサーです。レイバンのサングラスとパイプが特徴で(ブルース・ウィリスに似たタフないでたち)、一度離れたフィリピンへと戻ってきます。彼がフィリピンを離れる時に言った言葉が「I shall return(俺は戻ってくる)」です。

Shallという単語には、義務感のような意味が含まれています。ですので、ここでは一度退避するが、必ず戻ってくる、その義務があるということを意味します。willは意思を表す助動詞ですが、shallの方が義務の意味が強いです。ですので、ビジネス契約書などでは、このShallを使用した言葉遣いが多くなっています。

マッカーサー・メモリアル

レイテ島のタクロバン市に行くと、マッカーサー・メモリアルなる記念像があります。まだ行ったことがないのですが、次回フィリピンを訪れる時は行ってみたいと思います。ただ、レイテ島よりもさらに日本人に知られていないルソン島リンガエン湾の方が個人的におススメです。そこからさらに北上してバギオに行けるからです。

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遣欧使節団とスペイン

宮城県石巻市にあるサン・ファン・バウティス号

どうも、義貞です。

新型コロナウィルスの拡大によって、海外旅行どころではなくなっている昨今ですが、春先にかけて静まることを祈りつつ、このブログをアップデートしていきます。

先日、電車内のニュースで、宮城県石巻市にある慶長遣欧使節団の帆船サン・ファン・バウティスタ号の復元船が老朽化のため解体されることになり、その保存を求める親書がスペイン市長から送られてきていることを知りました。

慶長遣欧使節団とは、今から約400年前、仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。

慶長遣欧使節団について https://www.santjuan.or.jp/history.html

ブログで取り上げていますが、大航海時代を支配したのはスペインとポルトガルですが、ポルトガルはインドのゴアからマレーシアのマラッカ、そして中国のマカオを通過して日本の長崎に辿り着きました。慶長遣欧使節団はマカオを通って、欧州へと向かっています。

スペインはマニラとメキシコのアカプルコを結ぶ『ガレオン貿易』を展開しており、どうやら仙台藩主伊達政宗は当時キリスト教を容認と引き換えに、メキシコとの貿易を求めていたようです。その交渉のために、慶長遣欧使節団をスペインへ派遣したようなのです。

この歴史は非常興味深いですが、次の長期休みにはぜひ宮城県に行ってみたいと思っています。スペインとの貿易交渉のために外交使節団を送ったという歴史が宮城県には残っており、使節団はマカオを辿っています。そして、スペインとの関係でいえば、必ずフィリピンとも何かしらの接点があるはずです。それほど、当時のスペインは強大であり、フィリピンはスペインの領土だったのです。

長期の休みを通して、アメリカのサンフランシスコに行く予定がありますが、サンフランシスコは聖サンフランシスコから由来しているとともに、ガレオン貿易で使用された船はサン・フランシスコ号です。

様々な歴史が点と点を結び、繋がっています。歴史を読み解くことが、複雑化された現在を読み解くカギとなります。今回のニュースを見て、そんなことを感じました。

時代は繋がっている。日本、フィリピン、スペイン、メキシコ、アメリカの歴史がそのことから読み解ける。現代とは複雑ながらも、非常に楽しい時代であるとわかります。

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マニラと長崎とローマ・カトリック

静かな教会

こんにちは。義貞です。

皆さんは、作家の遠藤周作原作、マーティン・スコセッシ監督の映画「沈黙」を見たことがありますでしょうか。長崎の隠れキリシタンを題材にした作品ですが、以前からブログで取り上げているように、大航海時代の当時はスペインやポルトガルなどの西欧諸国が新大陸を目指して船出し、香辛料の獲得とキリスト教の布教を行いました。

日本では、織田信長は比較的キリスト教に寛容であり、南蛮貿易などで西欧の物を取りいれていきました。その当時の強国であったスペインは西回り、ポルトガルは東回りで世界周航を行いました。ポルトガルはインドのゴア、マレーシアのマラッカ、中国のマカオを経て、日本の九州に辿り着きます。特に長崎は港町であり、海外との接触点が多い場所でした。布教者たちはまず長崎や熊本などでキリスト教の布教に努めていきました。

先日、ローマ法王が長崎の地を訪れたように、ローマ・カトリックと長崎は縁が深い場所なのです。もともと日本にローマ・カトリックを広めたのはイエズス会のフランシスコ・ザビエルです。九州にキリスト教信者が多いのはそのためでもあります。

フィリピンの場合は、マニラを中心にスペインによって布教をされたわけですが、スペインにしてもポルトガルにしても、カトリック教国ですし、ローマ・カトリックに繋がります。この歴史は非常に興味深いです。

私は、この2020年を通して、このテーマを追っていこうと思っています。まずは長崎の地へと向かいたいと思います。「英語留学」から離れますが、フィリピンの面白さは「英語」だけに留まりません。その歴史を通して、グローバル化を考える良いきっかけにもなります。

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インドネシア首都移転とスールー王国

スールー諸島

こんにちは。義貞です。

さて今日はジャカルタの首都移転について取り上げたいと思います。ジャカルタはインドネシアの首都なので、フィリピンではないのですが、東南アジアの大国であるインドネシアの首都がフィリピンの近辺であるボルネオ島(※インドネシアではカリマンタン島)に移るということで、フィリピンへの影響も大きくなると考えられます。

インドネシアは2億人以上の人口を誇る大国で、1000万人が首都ジャカルタに暮らしています。ジャカルタに政治、金融、貿易、サービスの全てが集中しているインドネシアでは、首都に負担が重くのしかかっており、交通渋滞含めて様々な都市問題が発生しています。加えてジャカルタは湿地にあり、地下水の供給などの面から土地が沈んでいます。タイのバンコクもそうですが、年々沈んでいっているようです。今後、温暖化の影響もあり海抜がどんどん低くなります。

そのような環境面もさることながら、勢いのある経済発展の中で都市と地方、都市の中でも階層が分かれてきています。富の不均衡によって人々の不満や抑圧感が溜まることもあり、インドネシアは首都機能を地方へと移します。その予定地がカリマンタン島東部なのです。

図を見るとお分かりになるように、カリマンタン島東部は比較的にフィリピンのミンダナオ島に近いのです。これは、なかなか面白いことになりそうだと感じました。というのも、かつてフィリピンのミンダナオ島、パワラン島などを含めて周辺地域はスールー王国という国が統治していたのです。

以前、スペインに支配されていくフィリピンの過程をブログで書きましたが、スペイン統治が完全に進む前のフィリピンには統一体としての国家は存在せず、様々な王国が散在した島でした。

首長制などを取っている集落などもあり、マクタン島の首長ラプラプがいたわけです。その当時ラプラプのみならず、スペインの支配に強く抵抗していた国があり、それがスールー王国です。スールー王国はミンダナオ島西端の諸島群を中心にミンダナオ島やパワラン島にまで拡大したイスラム国家です。

非常に面白いと思うのは、カリマンタン島にあるブルネイ王国と王族関係で仲が良かったらしいです。つまり、カリマンタン東部にも関連性があったということです。加えて当時明王朝であった中国との交易によってスールー王国は一大貿易センターとなり、大きく発展していました。

現在では一部の過激派勢力によってほとんど観光客のいないミンダナオ島西部ですが、インドネシアが首都をカリマンタン島に移すとなると、そこはインドネシア、ブルネイ、マレーシアの3ヵ国の中心地に変わる可能性を秘めています。そうなった場合にフィリピンがその経済圏に参加することのメリットは大きいです。

フィリピンの近代史は、ガレオン貿易によって繁栄し、キリスト教の価値観を強めていく北部マニラと、徹底的に抵抗するも貧しさの中に沈み排除されることによって怨念を強めていく南部ミンダナオの違いにあります。この価値の相克の中で、イスラム国家であり大国であるインドネシアの首都が近づいてきたらどうなるのか。今、新しい歴史の1ページがめくられようとしている感じです。

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フィリピン歴史③建国の父ホセ・リサール

リサール公園の銅像

どうも、海外侍の義貞です。

フィリピン歴史③ということで、今回はホセ・リサールの話です。ホセ・リサールはフィリピン人にとって史上最高の英雄とされている人物です。スペインの圧政に、明晰な頭脳をもって立ち向かった革命家でした。

南米の革命家といえばチェ・ゲバラですが、フィリピンの革命家といえばホセ・リサールです。チェ・ゲバラは戦略的な武闘家という感じですが、ホセ・リサールは「ペンは剣よりも強し」のような知的なインテリゲンチャでした。またフィリピン人らしく、世界中の様々な国の女性と恋愛するルパン的な要素を兼ね備える人物です。

ホセは、スペイン領東インドだった時代、中国人とフィリピン人の混血の家族の元に生まれました。祖先を遡ると日本人もいるとのことですが、本当なのかわかりません。小作農として農学を学び、土地測量などの技術を学んでいたリサールですが、母親が病気になったことを期に医学を学ぶことになりました。孫文とかチェ・ゲバラもそうですが、医者って革命家になりますね。

スペイン語も堪能だったリサールは、スペイン政府からも評価され、宗主国であるスペインへ留学することになりました。留学時には医学と哲文学を学び、ヨーロッパのあらゆる言語を取得、日本語や中国語すらも学習したそうです。スペインのマドリードでの留学が彼に気づきを与えました。フィリピン人がスペイン人に劣っているわけではない、足りないのはただ教育の機会だと。

そこからリサールは、小説を書いて民衆を啓蒙し、スペイン支配からの脱却を目指していきます。しかし、フィリピンに戻ってきて出版した小説がスペイン支配層の目にとまり、再度リサールは留学に出発します。その時に立ち寄ったのが日本でした。日本に滞在した際に、ある日本人女性に恋心を抱いたらしいです。そんなこともあってか、今でも東京の日比谷公園にホセ・リサールの銅像が置いてあります。日本とも縁があったのですね。

再度フィリピンに戻ったリサールですが、フィリピン同盟を結成したことでまた反逆者の濡れ衣を着ることになります。そしてミンダナオ島に流刑されます。

その後、キューバへと向かうさなかに捕らえられ、マニラへ送還されて銃殺されてしまいます。くしくも、ボニフォシオがフィリピン独立革命を始めたばかりの時でした。フィリピンが独立を求めていく過程で重要となる人物が、リサールの他にアンドレス・ボニフォシオとエミリオ・アギナルドがいます。リサール亡き後に、この2名が活躍していくのですが、それはおいおい書いていきたいと思います。

ホセ・リサールが軍事会議にかけられて、公開処刑される際には多くの民衆が集まったそうです。マニラのリサール公園に行くと、リサールが実際に銃殺された場所にその銅像が建てられています。歴史を追いながら、公園を散策してみるのも楽しいでしょう。

フィリピンの近代史は、スペインとの関係と切っても切り離せません。情熱の国スペインだけあって、その植民地だったフィリピンからも、情熱的な人物がたくさん登場してきます。フィリピンに行った際には、愛と情熱に燃えるリサールの人生を追ってみると楽しいと思います。