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南蛮貿易と長崎港

vessels moored in harbor of modern urban city
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どうも、海外侍の義貞です。

世界的に人の流れが止まった世界でも、今まで流れてきて定着したものは変わることはありません。加えて、食・物・宗教(思想)の流動は止めることができない。

中華やイタリアンを食べたくないというという日本人は、あまりいないのではないかと思います。そもそも洋服を着て、映画館に行くなどの行為すら西欧から取り入れた様式であって、それ以前の時代の生活様式で生きたいという人は少ないでしょう。

また日本の場合、資源やエネルギーを海外から購入しているので、全く海外との関係を断って今の生活を維持することはできません。つまり、海外を取り入れることで豊かになれるし、海外との関係を断つことはできないということです。

島原の乱が勃発して、日本が鎖国に入る以前の戦国の世の時は、織田信長に限らず地方の武将や大名たちも海外に関する知識を貧欲に取り入れていました。以前、ご紹介した仙台藩主である伊達政宗は、グローバルな視野の持ち主でした。

https://bit.ly/3lFptg6 サン・ファン・バウティスタ号と慶長遣欧使節団

また、信長によって許可された南蛮貿易によって、ポルトガルやスペインから西欧の珍しい文物が入り込み、日本からは銀が交換されて繁栄したようです。

その当時の中心港が長崎港であり、ポルトガル人やスペイン人は東南アジアに植民地を形成していたため、マレー半島マラッカ(ポルトガル)、フィリピン・マニラ(スペイン)の南方面からやってきたので『南蛮貿易』と呼ばれています。

当時、日本は東南アジアとの交易が活発で、多くの日本人が貿易船にのって東南アジアへと渡り、現地で日本人街を作っていきました。有名な人物がタイ王朝の首都アユタヤで活躍した山田長政です。

島原の乱の勃発でキリスト教の広まりを危惧した幕府が、その後は海外にいた日本人の帰国を完全にシャット・ダウンして『南蛮貿易』は終わりを迎え、鎖国時代へと入るわけですが、鎖国期間中に外で力をつけてきて西欧諸国との力の差が歴然となり、力で開けられることになりました。

https://bit.ly/2XxiMmo 長崎奉行と島原の乱

南蛮貿易の時代には、スペインが最強だったとはいえ、日本は植民地にはなっていません。つまり、スペインとうまくビジネスやってたということなのだと思います。フィリピンは国名までスペイン名をつけられてしまいましたが、日本は南蛮貿易で繁栄しました。

平和的に交易を行うという方が国が発展します。交易は相手あってのことなので、海外を理解することがやはり大事になるのだと思います。

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フィリピン歴史⑤アメリカによる植民地化

Photo by Tim Mossholder on Pexels.com

どうも、義貞です。

今日は、アメリカによる植民地化という点からフィリピンの歴史を見ていきたいと思います。前にブログで少し書きました。⇒『フィリピン、グアム、ハワイとアメリカ』https://bit.ly/30ALQwd

アメリカという国は、誕生してからまだ200年ちょっとの歴史しかありません。英国国教会に反発した清教徒(ピューリタン)であるピリグリム・ファーザーズたちが、メイフラワー号に乗り”約束の地”である新大陸に入植して最初に13州の領土を築きます。

その後、マニフェストデスティニー(明白な天命)を掲げ、13州からより西部へと開拓を進めていくのです。イギリスからやって来たアングロサクソンたちが、元来からそこに住んでいた先住民であるインディアンたちを次々と殺害し、自分たちの領土を拡大させていきました。

レヴェナント』というレオナルド・ディカプリオ主演の映画があり、開拓当時をモチーフとして描かれているのでなかなか面白いです。

西部を開拓していきアメリカ領土は拡大していきますが、当時西側のカリフォルニアなどはメキシコ領でした。ヌエバ・エスパーニャ(新スペイン)から独立したメキシコが西側のカリフォルニア州から南部テキサス州までを領土としていましたが、その後テキサスが独立します。そして、西部目指してExpand(拡大)してきたアメリカとの間でテキサスの所属を巡りメキシコと戦争が起きるのです。それが、「米墨戦争」です。

この戦争にアメリカが勝利し、カリフォルニアを獲得します。もともとメキシコ領だったこともあり、カリフォルニアの都市はサンフランシスコサンノゼなどスペイン語の響きが残っています。


アメリカの植民地主義

北米大陸を手中に収めたアメリカは、19世紀にヨーロッパで世界大戦が勃発すると、旧大陸とは距離を置きはじめます。モンロー主義(孤立主義)によって、ヨーロッパの植民地拡大には関わらないという立場をとっていました。

しかし、イギリスとフランスが植民地戦線を拡大させるなかで、太平洋のハワイにまで領土の狙いを定めていました。ハワイは太平洋上でアジアへも開かれており、アジアへ歩を進める補給地として妥当な場所でした。その時にスペイン領であるキューバを巡り、アメリカとスペインで戦争が起こります。それが「米西戦争」です。

米西戦争に勝利したアメリカは、スペイン領であったプエルトリコ、グアム、フィリピンを獲得します。1800年代の終わり頃ですが、フィリピンは独立のためにアメリカと一緒にスペインと戦いました。スペインを倒したフィリピンは200年におよぶ植民地化が終わるかと思いきや、今度はアメリカによって植民地化されます。米西戦争に次いで「米比戦争」が起こりますが、スペインに勝利したアメリカに勝てるはずもなく。

歴史を追っていくと、アメリカはメキシコ、スペイン、フィリピン全てに勝利していますね。歴史的に戦争で負けたことがない(ベトナム戦争は部分敗北)のがアメリカです。だからこそ、「負け」を想像できないし、それは許されないのがアメリカと言っていいでしょう。

アメリカの植民地であるがゆえ、フィリピンは英語圏になってしまったのですねー。

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フィリピンとマレーシア

Photo by Pixabay on Pexels.com

どうも、義貞です。

前回、オフショア候補地としてフィリピンベトナムを比較しましたが、今回はフィリピンマレーシアを比較したいと思います。

フィリピンとマレーシアを留学先として候補に上げると、カナダやオーストラリアなどの定番の留学先に行った方たちから、「アジア?しかも途上国で?」と上から目線で見られますが、3-6ヵ月くらいカナダやオーストラリアに留学した日本人よりも、現地のフィリピン人やマレーシア人の方が英語が話せます。

バンクーバーやケアンズなどに行けば、語学学校は日本人が多いでしょうから結局現地で日本人で固まって、英語はほとんど勉強しないという方も多いのではないでしょう。

日本に戻ってくれば、例えばmeet up やinternationなどの交流に参加したり、外資系企業に入らない限り、ほとんど英語に接する機会はなくなります。普段から英語に接する機会が多いフィリピン人やマレーシア人に英語レベルで上に立つことはできません。

さて、「英語留学」という点でいうと、語学留学を売りにしているのはフィリピンの方かもしれません。マレーシアにも多くの語学機関が軒を連ねていますが、学校の数の多さでいえばフィリピンの方が多いと思います。そもそも、人口規模で比較すると、マレーシアは3500万人ほどの国ですが、フィリピンは1億いっています。

実質的な英語の能力として、よくランキングとして出されるデータがスウェーデンにある世界最大級の語学学校 EF(Education First)のアジアランキングです。

このデータ分析は非常に参考になります。個人的には、日本が低いレベルにあるのは知っていますが、中国が標準的であるのと、タイが日本より低いレベルであるという点が面白い。東アジア圏は、日本とベトナムを除いて標準的です。シンガポールが首位を走るのは当然として、やはり次のレベルはマレーシアとフィリピンです。

あれだけ多くの観光客を世界から呼び込むタイが、英語レベル日本よりも低いというのは、タイ人も英語に苦手意識を持っているといいでしょう。

マレーシアやフィリピンでは日常的に英語を使用する機会があります。また外資系企業やコールセンターなどのBPO分野でも彼らは英語を使用しており、ネイティブ相手でも問題なく会話できる人たちが多いです。

そもそも、雑駁ですが、歴史的にはフィリピンが「マレーシア」という名前を国名にしようとした経緯もありますし、民族的には両国ともにマレー系です。マレーシアとインドネシアがイスラム教なのは、かなり前からアラブの商人や宗教者たちが商売や布教で中東からやってきたと影響です。

今やフィリピンも「マハルリカ共和国」に国名を変えたいらしいので、徐々に自分たちの歴史を見返そうとしている感じはありますね。

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フィリピン歴史④レイテ島とマッカーサー

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どうも、義貞です。

自分は歴史が好きなので、今回は近現代の歴史に絡めた話にしたいと思います。

誰もが知っているように、日本とアメリカは太平洋戦争で戦っていました。

不幸にもフィリピンは、そんな日本とアメリカの戦況拡大の犠牲になった場所でもあります。戦時中に多くの被害を被ったフィリピンでは、かつて戦地となった場所を訪れると戦闘の説明などが書いてある跡地があります。

レイテ島の後に、北部ルソン島の戦いがありますが、パンガシナン州のリンガエン湾を訪れた時は、そこが戦地であったことさえ知りませんでした。リンガエン湾は幅が広く戦艦で上陸するには降りやすい場所ということもあり、日米両方が上陸しました。

戦いに参加していたのは、日米だけでなく、フィリピン勢とオーストラリア勢も加わっていました。やはり、太平洋に面していると主に米国やオーストラリアが相手となります。

ちなみに、タイではミャンマーとの国境付近にあるカンチャナブリー県で日本軍が英国やオーストラリア軍の捕虜を使ってクウェー川に橋をつくらせ、タイとミャンマーを繋ぐ鉄道の建設を行っていました。(映画『戦場にかける橋』参照)

さて、当時、大本営は戦況は優位にあると考えていました。それは台湾沖の空戦で日本がアメリカ軍に多くの損害を与えたと戦況を判断したことに始まります。本来的にはルソン島(リンガエン湾)に配備するはずであった陸軍を、レイテ島の防衛にまわし、作戦を急きょ変更します。

しかし、この作戦変更は大失敗に終わります。そもそもマニラからレイテ島までの距離は東京から岡山くらい離れており、制空権はアメリカ軍が握っている中で、レイテ島まで兵隊を移動させながら、物資などを補給させることが困難であったからです。

Logisticsは兵站という意味ですが、もともとは軍事用語です。戦術や戦略にならんで、兵站をタイムリーに確保することは、戦闘において非常に重要になります。この補給の見通しが甘かったゆえに、日本軍は多くの餓死者を出すことになりました。

そして、そこで登場するのがダグラス・マッカーサーです。レイバンのサングラスとパイプが特徴で(ブルース・ウィリスに似たタフないでたち)、一度離れたフィリピンへと戻ってきます。彼がフィリピンを離れる時に言った言葉が「I shall return(俺は戻ってくる)」です。

Shallという単語には、義務感のような意味が含まれています。ですので、ここでは一度退避するが、必ず戻ってくる、その義務があるということを意味します。willは意思を表す助動詞ですが、shallの方が義務の意味が強いです。ですので、ビジネス契約書などでは、このShallを使用した言葉遣いが多くなっています。

マッカーサー・メモリアル

レイテ島のタクロバン市に行くと、マッカーサー・メモリアルなる記念像があります。まだ行ったことがないのですが、次回フィリピンを訪れる時は行ってみたいと思います。ただ、レイテ島よりもさらに日本人に知られていないルソン島リンガエン湾の方が個人的におススメです。そこからさらに北上してバギオに行けるからです。

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福建省とフィリピン華僑

brown and red temple
Photo by Lian Rodriguez on Pexels.com

どうも、義貞です。你好我叫義貞。

最近は家にいる時間が増えたので、これを機会に中国語を勉強し始めました。アメリカ在住の中国人の先生からオンラインで中国語を習っています。

Italkiという言語学習サイトを使用して勉強しています。Italkiはかなり使い勝手が良く、そのうえ、日本のように「スクール」的な感じがありませんし、システムも画一的ではありません。

先生ごとに提示される1レッスン価格に応じて、コマ数やレッスン時間をパッケージとして購入できます。なんというか、レッスン内容もそうですが、システムもインタラクティブ(相互的)なんです。いつも思うのは、何事も日本の教育事業というのは一方通行な印象があります。教師の立場から一方的に教授される、というばかりで自分としてはこういうことが習いたい、やりたいということが制限されます。

先生の教え方も違っていていいし、人によって合う合わないがあって良い。特に言語の学習は「継続」が重要になるので、自分にとってその授業がフィットし継続できるかが大事になります。Italkiのシステムについては別でまた説明したいと思います。

海上貿易に従事していた華僑たち

さて、本日は東南アジアで一般的な「華僑」についての話をしたいと思います。

まず、よく混同される「華人」との違いについてですが、「華人」は移住した現地の国籍のみを取得し土着化した人々のことを言うようです。「華僑」の場合は中国籍も有している人を指すようです。

もともと、福建省(台湾と海峡を挟んで真向かい)の出が多いようです。台湾の本省人たちもそうですし、マレーシアやシンガポールなどに居住した人たちも、大体この辺りの出身者が多いようです。福建省は海に面していて、海上貿易も盛んだったそうです。人口が過密化する中で、海外にチャンスを求めて飛翔する人々が多くいました。

以前のブログ記事でも取り上げましたが、フィリピンのルソン島、マニラには16世紀頃には多くの中国人商人たちがすでに居たようです。メキシコとのガレオン貿易も中国からの銀などが本地スペインへ送られたりしているので、中国人とのビジネスが多く行われていたのでしょう。

また、ムスリムたちが支配していたスールー王国なども中国との貿易で栄えているので、フィリピンと中国との経済的な結びつきは強かったのかもしれません。昔はインコタームズ(国際貿易のルール)などなかったと思うのですが、ちゃんと取引できていたのだろうか、、、

いずれにせよ、このようなバックグラウンドがあるため、華僑たちが事業に長けている人たちであると容易に想像できます。その後、東南アジアの経済を自らの手に占める豪族たちが登場していきます。

フィリピン経済を支配する華僑たち

フィリピンの経済は華僑系の財閥によって支配されているといっても過言ではないくらいフィリピン華僑たちは力を持っています。インドネシアやマレーシアもそうです。

フィリピンでは、SMグループを立ち上げたヘンリー・シー、フィリピン航空を経営するルシオ・タンなどが非常に有名です。なぜここまで財を成すことができるのかというくらい大きな成功を掴んでいる人たちです。

ただ、財閥ともなってしまうと政治との結びつきも生まれ既得権と化していきます。フィリピン人は言語能力も高く、ITスキルも高いのにフィリピンから独自のイノベーションや新しいビジネスが生まれてきていません。

それを考えると、フィリピンはマレーシアやインドネシアから一歩遅れをとっていると思います。

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造船と船員とフィリピン人

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どうも、義貞です。

私(拙者)は貿易業に身を置いており、イタリアとやり取りすることが多いのですが、イタリアでのコロナウィルスの拡大によってやはり影響が出てきます。手洗い、予防に励みつつ、イタリアでも早期に静まることを願っています。

さて、クリストファー・コロンブスはジェノバの商人で、彼が新大陸アメリカを発見したと言われています。ジェノバはまさに今、私がやり取りしている場所なので感慨深いです。ちょうど南フランスと北イタリアの結節点に近い場所にあります。何世紀にも渡り海上貿易によって栄えてきた都市です。

フィリピンセブのダウンタウンの大通りはコロン・ストリートと呼ばれていますが、その名もコロンブスに由来しているようです。歴史を感じさせます。世界史好きな私にはたまりません。

貿易とは非常に古くからある産業です。日本も戦後は加工輸出によって急成長しました。そして日本の貿易の大部分は船舶での輸送が主です。近代以降は鉄が産業の主流となり、海外との貿易のために造船業が栄えました。フィリピン南部のミンダナオ島にある中核都市ダバオに一時期多くの日本人が住んだのは、マニラ麻の収穫が船を港に繋ぎ止めるロープを作るのに適していたからです。

今や産業構造の変革が起こったため、日本では造船業は衰退を辿っていますが、フィリピンは発展途上国のため、現在でも造船業が盛んです。マクタン島からセブ島へと橋を渡る際に、海には多くのコンテナ船が止まっているのを見ることができます。

造船の作業員、港、船員などで多くのフィリピン人が活躍しています。フィリピン人女性がメイドや看護師として活躍するように、フィリピン人男性は船員や建設員として活躍しています。また、その得意のホスピタリティ精神でクルーズ船のクルーなどもだいたいフィリピン人です。

なんといってもフィリピンは海洋国家なのです。フィリピン人には海が似合います。

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フィリピン、グアム、ハワイとアメリカ

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どうも、義貞です。

今回はスペイン帝政の時代から少し時を巻き戻していきたいと思います。どんな帝国も永遠に繁栄することはありません。帝国は少しずつ内部から壊れていき、そしてドラスティックに変わります。帝国が衰退する際には、また新しいパワーを持った国が出現してくるのが歴史の常です。

フィリピンとメキシコを繋ぐガレオン貿易によって大繁栄を築いたスペインですが、大航海時代の競争は激化し、イギリスやオランダ、フランスなどの勢力が拡大していきます。それとともに、メキシコやフィリピンでは独立を求める声が徐々に大きくなり、フィリピンでは革命家のホセ・リサールやエミリオ・アギナルドなどが登場してきます。

メキシコがスペインから独立を果たすと、いよいよスペイン帝国は崩壊していきます。新大陸アメリカをめぐる戦いが激しくなっていくとともに衰退し、アメリカ自体が新しい国家として台頭した時には、スペインは覇権国の地位を退かざるを得なくなります。

19世紀には米西戦争が勃発し、フィリピンもそれに巻き込まれます。フィリピンは海洋国家で、太平洋にむき出しで面していたというところに不幸があります。19世紀の戦いは海洋国同士の覇権争いであり、アジアから太平洋に出ていくまさに絶好の場所にフィリピンはあるのです。

スペインとの戦争に勝利したアメリカは、グアムとともにフィリピンを獲得します。アギナルドもせっかく米国に協力してスペインに勝ったと思ったのもつかの間で、さらに米国から支配されるという時代に突入するのです。大航海時代が終わり、帝国主義と植民地主義の時代が始まります。

ハワイも、グアムも、フィリピンも圧倒的な力によって米国の軍門に下ります。スペインからアメリカへと最強の帝国に立て続けに支配されるという本当にアンラッキーな歴史を歩んでいるフィリピンです。

多数の島数によって統一国家としての体を成せず、繁栄のおこぼれをもらえるマニラと抑圧によって怨念が溜まるミンダナオという歴史も作られてしまいました。マニラの中心であるマカティでホテルに泊まると、悲しいくらいアメリカナイズされているのを感じることができます。アメリカナイズされていて、明るくてフレンドリーで、しかし融通が利かないところがあり、それでいて緩い空気感がありながら、どことなく危険な感じを覚えるマニラ。

セブに対しては素直に好きな場所と言えるのですが、マニラに対してはちょっと微妙な感じになってしまう。クアラルンプールやバンコクなど他の東南アジアの大都市と比較しても、なぜか違った空気を感じてしまうのは、やはりフィリピンが独特の歴史を経てきているからなのでしょう。

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遣欧使節団とスペイン

宮城県石巻市にあるサン・ファン・バウティス号

どうも、義貞です。

新型コロナウィルスの拡大によって、海外旅行どころではなくなっている昨今ですが、春先にかけて静まることを祈りつつ、このブログをアップデートしていきます。

先日、電車内のニュースで、宮城県石巻市にある慶長遣欧使節団の帆船サン・ファン・バウティスタ号の復元船が老朽化のため解体されることになり、その保存を求める親書がスペイン市長から送られてきていることを知りました。

慶長遣欧使節団とは、今から約400年前、仙台藩主伊達政宗が仙台領内でのキリスト教布教容認と引き換えにノビスパニア(メキシコ)との直接貿易を求めて、イスパニア(スペイン)国王およびローマ教皇のもとに派遣した外交使節です。

慶長遣欧使節団について https://www.santjuan.or.jp/history.html

ブログで取り上げていますが、大航海時代を支配したのはスペインとポルトガルですが、ポルトガルはインドのゴアからマレーシアのマラッカ、そして中国のマカオを通過して日本の長崎に辿り着きました。慶長遣欧使節団はマカオを通って、欧州へと向かっています。

スペインはマニラとメキシコのアカプルコを結ぶ『ガレオン貿易』を展開しており、どうやら仙台藩主伊達政宗は当時キリスト教を容認と引き換えに、メキシコとの貿易を求めていたようです。その交渉のために、慶長遣欧使節団をスペインへ派遣したようなのです。

この歴史は非常興味深いですが、次の長期休みにはぜひ宮城県に行ってみたいと思っています。スペインとの貿易交渉のために外交使節団を送ったという歴史が宮城県には残っており、使節団はマカオを辿っています。そして、スペインとの関係でいえば、必ずフィリピンとも何かしらの接点があるはずです。それほど、当時のスペインは強大であり、フィリピンはスペインの領土だったのです。

長期の休みを通して、アメリカのサンフランシスコに行く予定がありますが、サンフランシスコは聖サンフランシスコから由来しているとともに、ガレオン貿易で使用された船はサン・フランシスコ号です。

様々な歴史が点と点を結び、繋がっています。歴史を読み解くことが、複雑化された現在を読み解くカギとなります。今回のニュースを見て、そんなことを感じました。

時代は繋がっている。日本、フィリピン、スペイン、メキシコ、アメリカの歴史がそのことから読み解ける。現代とは複雑ながらも、非常に楽しい時代であるとわかります。

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インドネシア首都移転とスールー王国

スールー諸島

こんにちは。義貞です。

さて今日はジャカルタの首都移転について取り上げたいと思います。ジャカルタはインドネシアの首都なので、フィリピンではないのですが、東南アジアの大国であるインドネシアの首都がフィリピンの近辺であるボルネオ島(※インドネシアではカリマンタン島)に移るということで、フィリピンへの影響も大きくなると考えられます。

インドネシアは2億人以上の人口を誇る大国で、1000万人が首都ジャカルタに暮らしています。ジャカルタに政治、金融、貿易、サービスの全てが集中しているインドネシアでは、首都に負担が重くのしかかっており、交通渋滞含めて様々な都市問題が発生しています。加えてジャカルタは湿地にあり、地下水の供給などの面から土地が沈んでいます。タイのバンコクもそうですが、年々沈んでいっているようです。今後、温暖化の影響もあり海抜がどんどん低くなります。

そのような環境面もさることながら、勢いのある経済発展の中で都市と地方、都市の中でも階層が分かれてきています。富の不均衡によって人々の不満や抑圧感が溜まることもあり、インドネシアは首都機能を地方へと移します。その予定地がカリマンタン島東部なのです。

図を見るとお分かりになるように、カリマンタン島東部は比較的にフィリピンのミンダナオ島に近いのです。これは、なかなか面白いことになりそうだと感じました。というのも、かつてフィリピンのミンダナオ島、パワラン島などを含めて周辺地域はスールー王国という国が統治していたのです。

以前、スペインに支配されていくフィリピンの過程をブログで書きましたが、スペイン統治が完全に進む前のフィリピンには統一体としての国家は存在せず、様々な王国が散在した島でした。

首長制などを取っている集落などもあり、マクタン島の首長ラプラプがいたわけです。その当時ラプラプのみならず、スペインの支配に強く抵抗していた国があり、それがスールー王国です。スールー王国はミンダナオ島西端の諸島群を中心にミンダナオ島やパワラン島にまで拡大したイスラム国家です。

非常に面白いと思うのは、カリマンタン島にあるブルネイ王国と王族関係で仲が良かったらしいです。つまり、カリマンタン東部にも関連性があったということです。加えて当時明王朝であった中国との交易によってスールー王国は一大貿易センターとなり、大きく発展していました。

現在では一部の過激派勢力によってほとんど観光客のいないミンダナオ島西部ですが、インドネシアが首都をカリマンタン島に移すとなると、そこはインドネシア、ブルネイ、マレーシアの3ヵ国の中心地に変わる可能性を秘めています。そうなった場合にフィリピンがその経済圏に参加することのメリットは大きいです。

フィリピンの近代史は、ガレオン貿易によって繁栄し、キリスト教の価値観を強めていく北部マニラと、徹底的に抵抗するも貧しさの中に沈み排除されることによって怨念を強めていく南部ミンダナオの違いにあります。この価値の相克の中で、イスラム国家であり大国であるインドネシアの首都が近づいてきたらどうなるのか。今、新しい歴史の1ページがめくられようとしている感じです。

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フィリピン歴史③建国の父ホセ・リサール

リサール公園の銅像

どうも、海外侍の義貞です。

フィリピン歴史③ということで、今回はホセ・リサールの話です。ホセ・リサールはフィリピン人にとって史上最高の英雄とされている人物です。スペインの圧政に、明晰な頭脳をもって立ち向かった革命家でした。

南米の革命家といえばチェ・ゲバラですが、フィリピンの革命家といえばホセ・リサールです。チェ・ゲバラは戦略的な武闘家という感じですが、ホセ・リサールは「ペンは剣よりも強し」のような知的なインテリゲンチャでした。またフィリピン人らしく、世界中の様々な国の女性と恋愛するルパン的な要素を兼ね備える人物です。

ホセは、スペイン領東インドだった時代、中国人とフィリピン人の混血の家族の元に生まれました。祖先を遡ると日本人もいるとのことですが、本当なのかわかりません。小作農として農学を学び、土地測量などの技術を学んでいたリサールですが、母親が病気になったことを期に医学を学ぶことになりました。孫文とかチェ・ゲバラもそうですが、医者って革命家になりますね。

スペイン語も堪能だったリサールは、スペイン政府からも評価され、宗主国であるスペインへ留学することになりました。留学時には医学と哲文学を学び、ヨーロッパのあらゆる言語を取得、日本語や中国語すらも学習したそうです。スペインのマドリードでの留学が彼に気づきを与えました。フィリピン人がスペイン人に劣っているわけではない、足りないのはただ教育の機会だと。

そこからリサールは、小説を書いて民衆を啓蒙し、スペイン支配からの脱却を目指していきます。しかし、フィリピンに戻ってきて出版した小説がスペイン支配層の目にとまり、再度リサールは留学に出発します。その時に立ち寄ったのが日本でした。日本に滞在した際に、ある日本人女性に恋心を抱いたらしいです。そんなこともあってか、今でも東京の日比谷公園にホセ・リサールの銅像が置いてあります。日本とも縁があったのですね。

再度フィリピンに戻ったリサールですが、フィリピン同盟を結成したことでまた反逆者の濡れ衣を着ることになります。そしてミンダナオ島に流刑されます。

その後、キューバへと向かうさなかに捕らえられ、マニラへ送還されて銃殺されてしまいます。くしくも、ボニフォシオがフィリピン独立革命を始めたばかりの時でした。フィリピンが独立を求めていく過程で重要となる人物が、リサールの他にアンドレス・ボニフォシオとエミリオ・アギナルドがいます。リサール亡き後に、この2名が活躍していくのですが、それはおいおい書いていきたいと思います。

ホセ・リサールが軍事会議にかけられて、公開処刑される際には多くの民衆が集まったそうです。マニラのリサール公園に行くと、リサールが実際に銃殺された場所にその銅像が建てられています。歴史を追いながら、公園を散策してみるのも楽しいでしょう。

フィリピンの近代史は、スペインとの関係と切っても切り離せません。情熱の国スペインだけあって、その植民地だったフィリピンからも、情熱的な人物がたくさん登場してきます。フィリピンに行った際には、愛と情熱に燃えるリサールの人生を追ってみると楽しいと思います。